「瞑想」が非常に重要であることは、精神世界を見直したり心の持ちようを変えることでより幸せになろう、と謳う本などのほとんどすべてに書かれていることである。禅を始め、在来の宗教の修行や祈りやお経も結局は瞑想の一形態なのだと思う。
瞑想によって、あなたの行く道、あなたにとってなにが正しいことなのか、を知っている「存在」とコンタクトするのである。それは潜在意識だという人もいる。「ハイアーセルフ」などという名でそれを呼ぶ人もいる。あるいはさらに、「神」という名で呼ばれるような、「外部」の超越した存在につながるのだと考える人もいるかもしれない。また、こういう説明もある。井戸は深いところで地下水脈につながっているように、自分の潜在意識は他の人々のそれとつながっている、個人を超越したものなのである、と。だから潜在意識とつながることがイコール自分を超越する存在とつながることなのだ、と。
「源」が本当はなんであるのか、私には今は分からない。だかしかし、日常のしがらみ、垢をぬぐい去って精神をピュアな状態にするということが何か役に立つはずだとは思う。あるいは、「科学的」に考えることが好みの人は、脳生理学的に、考えてもいい。瞑想の時に出る脳のα派は、たとえばイチローが打席にたって集中し、ホームランを打つときの脳波と同じだそうである。判断力がとぎすまされる集中の状態をいつでも作り出せる訓練にも瞑想は役立つというわけだ。
ところが。そういうわけで私としてもその効用は十分に信じているので、瞑想をしてみようとずっと長年トライしている。なのに、上手くいかないのである。はじめのうち上手くいかないのは当然であり、だからこそ練習が必要なのだが、練習にまで至らない。だいたいの場合、眠くなってしまうのである。それで眠ってしまう。2度寝の状態となり、かえってスッキリしなくなる。座っていても、腹筋背筋がなく基本的に姿勢の悪い私は、座っている姿勢を保っているのがつらくなってくる。そして耐えきれず横になってしまったりしてやっぱり眠ってしまう。マントラをとなえる、とか呼吸に意識を集中する、とかいろいろな「技法」はあるのだが、それ以前の問題なのだ。
おまけに狭いアパートに同居人と住んでいて、この同居人が仕事柄生活が不規則なので、なかなか自分だけの静かな時間・空間というものが確保できない。
そこで私は考えた。おそらく邪道なのだとは思うが(だからあまり声を大にしておすすめはできないが)風呂場で瞑想するのである。お湯を落とした風呂桶(アパートだから当然狭苦しいもの)の中に裸で座ってしまう。そして、ぬるめのお湯をほんの少しずつ蛇口から出してためていくのである。目をつぶらず、蛇口から流れ出るお湯を見つめる。
これにはいろいろなメリットがあった。まず「ひとりの静かな空間」を確保できる。それに狭い風呂桶なので背中を寄りかからせることもでき、楽である。お湯がたまってくれば浮力でさらに楽になる。太りすぎの私も脂肪やお肉の重力と戦わなくて良い(^_^;)。 いまは気候が程良い時季なのでいずれにしても楽だが、寒くなってくればお湯を少し熱めにし、逆に夏にはうんとぬるくすればよいのではないか。
流れるお湯を眺めること自体も、瞑想には有効なようである。途中で少し疲れて目を閉じ、軽い眠りに誘われることもあるが、座った姿勢を保てるので完全には眠ってしまわない。
しかも、お湯がたまるまで一定時間がかかるので時間経過の目安が分かりやすい。約20分ぐらい、とりあえずちょうどよい時間である。そして瞑想を終えたら朝風呂として体など洗ってさっぱり爽快。
この方法は結構功を奏している。とりあえずここのところ毎朝続いているのだ。これでやっと瞑想を「練習」する戸口に立てたように思う。瞑想そのものはまだまだヘタクソ、次から次へわき起こる邪念をやり過ごすことは難しい。だがそれも「継続は力なり」であろう。この方法が邪道であったとしても、これをきっかけとしてもう少しマトモな瞑想法に移行できるかもしれない。