他力本願

 親鸞上人の有名な言葉に「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」というのがある。 これを最初に習う中学ぐらいの年齢でこの言葉が理解できる人は少ないだろう。「善人ですら往生できる、悪人ならなおさらだ」と言うでのは、逆にしか聞こえない。

 歴史の先生は説明する「親鸞の教えは、すべてを阿弥陀仏に委ねよ、ということだ。善人は自分の力で功徳を積むことができるので、委ねきることができない、ところが自分で善行をできない悪人はひたすらすがるから救われる」。 ううむ。そう聞いても「屁理屈」にしか聞こえない。

  しかしこの言葉は中学生の時に聞いて以来、「へんなの」と思いつつ妙に心に残っていて、(もちろんその後も基本的教養であるから折に触れ聞くことがあってもピンとはこないままだった)最近になってようやくその「心」が本当に分かる気がしてきた。

  いわゆる「他力本願」であり、この言葉自体がすでに「一般用語」としてマイナスの意味を持って使われるようになっている。自分で努力せず、人の助けをあてにするという好ましくない状態を指し、甘えていると目される。 しかしもちろん本来の「他力」は他人の助けのことではなく、仏の救いのことであり、所詮はなにもできない存在である自分を認め、すべてを仏に委ねておすがりすれば救済されるのである。そういう用語だと分かってもなお、自分の側での努力を放棄せよと言わんばかりの「教え」は、とくに若い人にはなかなか納得できるものでもないだろう。「なにもできない自分を認める」なんて敗北的だ、努力すればなんでもできる! 努力こそ美徳!

  しかし、自分の力だけでなにかができると思ってしまうのは、「思い上がり」なのである。自分が努力した結果と見えることでも、その努力することですら、なにかしらの土壌や機会が与えられてこそできることだ。人っ子一人いない真空状態で何かをするのでない限り、あらゆることが、人を含めた他の存在に関わっている。自力を恃む人はえてしてこれを忘れてしまいがちだ。 他からの目に見える助け、目に見えない助けに感謝をするどころか、ときには他の存在が自分の行く道に立ちはだかり、拒み、じゃまをするものにしか思えないときもある。「努力」が打ち砕かれるように感じるときもある。そういうときのフラストレーションはいかばかりか。

  「他力」という考えを受け入れ始めると、生きるのが楽になる。楽しくなる。そういう目で見てみれば自分の周りには感謝したいことがたくさん見つかる。心から感謝するとき、人は決して不快ではありえない。感謝とは喜びである。一見、自分にとって障害としか思えないようなものごとに対しても、それが今後「どう転ぶか」はそれこそ神のみぞ知る、ある程度以上の予測は人知を越える。ならば、必要以上にこだわってくよくよするよりは、これから良くなるための布石、と思えば御しやすくなる。そう思うと、不思議なことに後になって「あれがあったから結果的には良かった」と言えるときが来る

。「転んでもただでは起きない」と言う。転んだらその体勢から周囲を見回してみると案外面白く役立つことが見つかったりするものだ。しかしそれも、日頃からそういう考え方を養っておかないと咄嗟にはできにくいことでもある。 「他力」を恃むのにも、修行(?)が必要だ。一生懸命に信じ、おすがりするのである。いい加減なすがりかたではいけない。心から「助けてもらえるはずだ」と信じたとき、助けが「見える」。自分の力だけをあてにして狭い視野でいたときには見えなかった助けが。