「願いを持つ」ことを願う

ふとつけたテレビで「津田梅子」のことを取り上げた番組をやっていた。6歳で親元を離れて、日本人女性として初めて米国留学した彼女は、それだけでも非凡だが(そんな小さい子ども遠い国へ留学に出す親も相当に非凡だと思ったが)、留学中に芽生えた「女性の教育機関を作りたい」という夢を持ち続け、長い年月を掛けて実現させてしまうという点において、さらに非凡な意志力を持った人だったのだと感動した。

 そして改めて「強く願えば叶う」ということの真実を見た気がした。梅子自身も、後年に自ら設立した女子英学塾の卒業生へのメッセージで同じことを言っている。
 しかしまた、だからこそ「強く願う」こと自体の難しさも改めて思ったのである。強く願えば願いは叶う、願いが叶わないのは願い方が中途半端なのである。ほとんどの人は、願いを持つ力がまず弱いのだ。

 しかし本当に願いは叶うはずなのだから、それならばまず、「強く願う力をこそ与えて下さい」と願えばいいのではないだろうか。 実際にそれこそが本当に「力」なのであろう。つまづいても笑顔で立ち上がるには、ゴールの光輝が見えていなくてはならない。それが見えていればつまづいたときの痛みなどなにほどのものであろうか。しかし見ようとしなければそれも見えないものなのである。

 だが私など、さらにそれ以前の問題がある。何を願うのかすら分からないのである。どちらに向かっていけばいいのかすら、分からないのである。もちろん、どこかへ「ゴール」することのみが人生の幸せだというわけでもない。そんなことを考えずに、「今、ここに」あることを感じ、大切にし、愛していればそれでいい、というのも真実かもしれない。それならば、しかし、それの真実であることを心から納得して分かりたいという「願い」は少なくともある。自分のこの世にある意味、なんぞと大それたことを追求するつもりはないが、自分のしていることには少なくとも納得ぐらいはしていたい。

「願いを強く持ち、実現させた」という人生に、ともあれ、心惹かれている。これすらもまた妄想に過ぎないのかもしれないが、願わくは、我に「何を願うべきか」を知らせたまえ。願いは叶う、のだから、まず私の「あるべき」願いが何か知りたい、という願いを叶えよう・・・・ああ、しかし贅沢な悩みと言うべきなのだろうか?(実際はお金がないよーという極めて現実的な悩みがあり、その悩みに「とにかくハタラく」という現実的解決ではなく非現実的解決を求めている、ということなのかもしれない、いやこれじゃミもフタもないが)