まず一歩。

 そうして私は、英語をまがいなりにも「モノにした」ときのことを思い出した。あのときも(しつこいようだが)英語での電話を受けて「ガイジンだああ〜、だれか助けて〜」と叫んでしまうぐらいのレベルでありながら、通訳ガイドの資格を取る!と決意した。「10年やろう」と、そのとき思ったのである。10年かければ、このレベルだって変わるだろうと、不思議に前向きだった。無理だよな、とは思わなかった。

 そして最初の1歩から踏み出して少しずつ歩んでいったわけだが、今から考えれば焦りもなく苦痛もなく、かといって「これを一生の夢に!」とまで気負っていたわけでもなく、かなり自然に進んでいったのだった。そしてちゃんと目標は果たしたのである。資格だけ取って「通訳ガイド」という仕事はしていないのだが、当初の目標としても「それで仕事をするかどうかはともかく」と思っていたので別に挫折ではない。英会話の先生になったのはこの目標への道に関しては「副産物」なのだが、「教師」の仕事をしたいという望みは学生の頃からあったので、脇道を通ってそれが成就した、ともいえる。

  ともあれ、「まず一歩を踏み出す」というテクニック(?)を自然に活用した成功だった。もう一度それを思い出そう。 どうにも、我ながら年齢に囚われてしまっている部分もあるらしい。しかしながら、それならばますます、とにかく踏み出さなければどんどん遅れるだけ。遅れたことを悔やんで呆然と立ちすくんでいるより、とにかく歩こう。「成功」の可能性が、よしんば低くても、歩き出さなければゼロだ、それに比べればたとえ1%でも上出来ではないか。

 私には、やりたいことが多すぎる、とも思っていた。そのどれもが中途半端だ、とも。ひとつのことにエネルギーを注げないからどれひとつもものにならない、と。しかしそれは正確ではない。エネルギーが分散するからいけないのではなかった。たとえばAのことをやっているときに、「こんなことやっている場合だろうか、Bをやったほうがよかったのではないだろうか」などと思っている、これがいけない。エネルギーは分散、どころか漏れて蒸発している。やることがたくさんあってもいいじゃないか。何かをやっているときにそれに集中しさえすればいいのだ。どれもこれも、少しずつやっていけばいい。少しずつやっている「つもり」で、どれもこれも上の空だったからいけないのだ。

  目標としていること、うっすら夢見ていることと現実の自分とのギャップに打ちのめされる・・・だが、そこに「時間」という助けを介在させればどうだろう。 高い山の頂上を仰ぎ見て、そこまで登る労力、つらさを思ってへこたれる。でも、とりあえず目の前の小高い丘の部分まで登ってみよう。景色や道ばたの花を楽しみながら。そして丘に着いたら、しばらく休んでもいいけど、またさらに次の展望台まで登ってみよう・・・。「通訳ガイド資格」という山には、少なくともそうやって登ったことがあるわけだ。

 焦りは年齢や、そして同じ年代の周囲の友人などの姿を見ることによって生まれてしまう。ああ、あの人はもうあの山の頂上にいる。あの人ももう8合目まで登ったみたい。でも仕方がない。人と比較して何になる。そもそも「何歳までに」という年齢制限がないから通訳ガイド資格に挑戦した。いま私がやってみたいと思っていることにだって、何の年齢制限があるというのか? それにまた、頂上に着いてしまって「終わり」になるというものでもない。(続く)