「早起きは苦手」と友達のひとりが言うので、「でも子供が学校行くときはけっこう早く起きないとならないでしょ」と言ったら、とてもそうは見えないが実は二児の母であるその友人は「うちは二人とも不登校だから」とあっさり言った。別の友達にそれを言ったら絶句されてしまったけどね〜〜とケラケラ笑う彼女に、私は絶句こそせず、ものすごく驚いたというわけでもないが「おやまあ」と思った。でも、義務教育は、一日も登校しなくても卒業させてくれてしまうものなのだそうである。
身近に子供がいないからいまひとつ実感がないし、マスコミ報道を鵜呑みにするのもどうかとは思うが、たしかに昨今の学校については、しばしば「そんなところに無理していくことないよ」と思いたくなる状況を見聞きする。子供にとっては自分の「世界」は徐々にしか広げていけないものだし、学校に行くのがあたりまえだと誰もが思っているところでは、『世界=学校』になりがちだ。その『世界』なる学校で、一つ間違えばイジメたりイジメられたり、あるいは『世界の権力者』?である先生が信頼できなかったりすれば、精神的に追い詰められるのも無理もない。おりしも、今日の朝日新聞のエッセイ(藤本義一の「日日日日(ひびにちじつ)」)で、『学校の校という字は、木の枷で身体の自由を奪うことだ』と書かれているのを読んだ。ふうむ、と思った。「校正」という言葉にあるように、「ただす」という意味と解釈して「まなびただす=学校」という語が生まれたらしいが、いずれにしてもカタにはめることには違いない。
わたし自身は学校にはとくに努力もせず適応したクチではあった。それどころか優等生でさえあった。しかし(こういうと気障ったらしいが)授業によってなにか新しいことや楽しいことや感動的なことを「学んだ」という気はあまりしない。授業で習うことは教科書に書いてあるのでそれを読めば済んだ(だから授業はうざったかった)。知的好奇心は読書や旅行によって満たされるものであった。 それでも不登校になることもなく毎日学校に嬉々として行ったのは、クラブ活動(ブラスバンド)がしたかったからだけである。クラスメートとの他愛ないおしゃべりも もちろん楽しかった。しかしあるとき、なにがきっかけだったか覚えていないがイジメのターゲットになったこともある。 クラスメートに「村八分」にされた。けっこう辛かったはずだが、あまり実感として覚えていないのは、やはり「クラブ活動」に救われていたからであろう。学校の範囲内であっても、ひとつ「別の世界」を持てていたから、さして追い詰められることもなかったのだろう。
もしも私自身、身を入れられるクラブ活動に出会えていなかったら、学校がそんなに楽しいものだったかどうかは自信がない。 逆に、学校に行かなくても学ぶべきことは学んだであろうという自信?はある。 少なくとも、何かの加減で人間関係につまづいたらーーたとえば前述したようにクラスで村八分の目なんかにあったら、そしてそれを救ってくれる別の世界が学校に見出せないなら、それでも無理して学校に行くことはむしろ精神に悪影響を与えるから、行かないでウチで本でも読んだり、サンバチームにでも入ってオドッテしまったほうがナンボかいいぞ。・・・・・と、いまだから、そして自分には子供がいないから言えてしまうが、自分がその当時そこまで「自立」できるコドモだったとは思えないし、オヤもそこまで達観はできなかっただろうなあ。自分もそこまで達観できるオヤになれたかなあ。いささか疑問ではある。「別にいいわよーー」と、本当にあっさり言えるくだんの友人にはカンドーしてしまったし、エールを送ってもしまうのだった。