侮辱の言葉は    2003.3.1 <コトバの花束>

「侮辱の言葉は,投げつけられた人より、発した者についてより多くを物語る」

仏大統領府報道官――英国メディアのフランスたたきに対して


米英の対イラク強硬論に反対して査察続行を主張するフランス大統領シラクにたいして,腰抜けだの恩知らずだのと,英国の大衆紙がやっきになって叩いているのだそうである。シラク氏を地虫に見立てた侮辱的なイラストや,汚い罵り言葉が紙面に跋扈する。それを受けての,フランス側の報道官の言葉である。

以前にも似たような言葉を聞いた記憶もあるから,この報道官のオリジナルというわけではあるまい,が,胸の空く対応である。 もっとも,英国民のうちで性急な武力行使を支持する人は1割にも満たず,おまけにローマ法王にまで叱られて,ブレア首相は困り果てているとか。

それでも大衆紙は挑発的な態度でシラク氏を叩くのだ。この場合,「物語られている」のは,ゴシップ好きの大衆紙は,センセーショナルでさえあればなんでもいいのだ,ということであろう。報道官の言葉には胸が空くとは言え,大衆紙側は痛くもかゆくもないであろう,もともとそんなことは自ら承知なのだ,自分たちがしていることが高級なこととは思っていやしない。

が,一般論としては,この言葉はけっこう役に立つかもしれない。なにかで不当に罵られたりしたときには,こちらも腹が立ち,売り言葉に買い言葉的にエスカレートしかねないが,罵りの言葉はたしかに,発した方の品位をこそ傷つけていることに気がつけば,気持ちを落ち着かせることはできる。こちらまで巻き込まれて同じレベルに落ちてはいけない。相手の態度が汚ければ汚いほど,こちらは極めて丁重に,必要とあれば軽い謝罪ぐらいはして,相手には言わせておく方が最終的に「勝ち」を納めることができる。

反論の必要があったとしても,ごくごく紳士淑女的に。ただし卑屈にはならないように。 (ただし,相手の方も冷静であった場合は困ったことだ。冷静に言われた非難や批判の言葉ほど痛烈にこたえるものはない)

何であれ,自分本位な理由でもって拳を振り上げたり,大声を上げたり(抽象的な意味でも)しているのははなはだみっともないものだ。自分がされたときばかりではなく,自分がそうしてしまいそうになったときも自戒せねばならない。