道には常に曲がり角がある    2003.2.22 <コトバの花束>

「そして,道にはつねに曲がり角があるのだ」

赤毛のアン (モンゴメリ作・村岡花子訳) 


幸福学や,性格診断の話を書いている私に,友人が「赤毛のアン」シリーズを薦めてくれた。読書好きの人なら少女時代に読んでいそうなものだが,私は実は読んだことがなかった。しかし,友人が,私が幸福学で言っているようなことはアンのシリーズに流れている思想と似ている,と言う。おまけに,きっとアン,そしてアンが「同類」とか「腹心」とか呼ぶ人々は,性格診断で言えば,私と(その友人とも)同じ<NF>にちがいない,と言う。 それである日,ふと本屋に立ち寄って文庫本を買ったのだった。

実を言うと私はあまり小説を読まない。読んだとしても(意外かもしれないが)時代小説ぐらいで,翻訳文学の類を読むのはめったにないのだ。しかし少女時代はそれなりに読んだ。いわゆる「世界の名作全集」というようなものである。 そんなわけで,赤毛のアンを読みながら,なんとも,少女時代に戻ったような甘酸っぱさを覚えていた。まあそれは本題とはあまり関係ないが。

さて,冒頭の言葉は,400ページ以上に渡る物語の,終わりから2行目の文である。全部で38章もあるこの物語は,微笑ましいエピソードなどをゆったりと展開してゆき,最後の最後になってすべてが凝縮されたような急展開が訪れ,そしてこの,象徴的な言葉で締めくくられるのである。 空想癖があって失敗も数多いアンだが,学業に身を入れて,ついに優秀学生として大学へ行く奨学金を得られることになる。ところが,養い親の老マシュウが亡くなり,その妹でアンの母親のような存在だったマリラも目を悪くし,アンが大学へ行くとなると独りではここに暮らせないので,住み慣れたグリン・ゲイブルズと呼ばれた家を売ろうとした。しかしアンは,一晩だけ悩み,その後はきっぱりと,自分は大学に行かずに地元の学校の教師になる,と決意を告げる。私のために犠牲になることはないというマリラに,犠牲ではなく,心からそうしたいのだ,という。そして,こう話す。

「自分の未来はまっすぐにのびた道のように見えたのよ。いつもさきまで,ずっと見通せる気がしたの。ところが今,曲がり角に来たのよ。曲がり角を曲がったさきになにがあるのかは,わからないの。でも,きっといちばんよいものにちがいないと思うの。それにはまた,それのすてきによいところがあると思うわ。その道がどんなふうにのびているかわからないけれど,どんな光と影があるのか−−どんな景色が広がっているのか−−どんな新しい美しさや曲がり角や,丘や谷が,そのさきにあるのか,それはわからないの」

そしてその後,アンはずっと敵対していた男子と仲直りし(彼が後の彼女の夫になるらしい),その夜,「満足することの幸福をしみじみ味わった」。 地平線は狭められたが,その道には静かな幸福の花が咲き乱れているのだ。・・と物語の語り手は書き,そして,
「そして道にはつねに曲がり角があるのだ。 『神は天にあり,世はすべてよし』と,アンはそっとささやいた」

で,締めくくられるのである。 ずっと見晴るかすことのできる道を歩くばかりが幸福ではない。曲がり角を面白がり,なんであれ道には花が咲いている,と思えるとしたら素晴らしいではないか。

アンを勧めてくれた友人に心から感謝し,すでに第2冊目の「アンの青春」も読み終えて,第1作目よりさらに感動した。この欄にも今後しばしば「アン」シリーズからの引用も登場するかもしれない。まあ,アンシリーズは熱狂的なファンをゴマンと持っていて,おそらくその言葉の引用は既にいたるところでされてきているのであろうが,まあ,それはそれである。