感情型と思考型      
originally written on 2002.5.14                    

カーシー博士の(いや,彼がオリジナルなのではなく,もともとはユングに端を発するらしいので,ユング的考え方に傾倒している私がこれにハマるのもむべなるかな,である)性格診断でF型とT型というのがある。つまりは,感情型か思考型か,というものだ。ユングの分類では「客観的な基準で選択する」ことが「思考型」であり,個人的(主観的)な基準で選択することが「感情型」なのだという。
思考型の人間の感情が乏しい,ということでは全くない。同じように強烈な感情を経験しても,それを判断の基準にするかしないかというところが違うのだ。「どちらを選ぶかは快適さの問題である」という。
このふたつの間には優劣はなく,どちらも必要だし役に立つ。
「この気質の違いは,他の気質と違い,二者間で補い合えるものになり得るのだ(これとは異なり,外向型対内向型や直観型対感覚型動詞は,補い合うよりも相反するものである)」とも書いてある。
ただし,それは「相手の発想を理解することができれば」ということになる。
表面的には,むしろ一番対立を生みやすいのがこの点ではないかと思う。
「極端な感情型は,規則だからという決め方にはぞっとし,非個人的な選択は人間性に欠けると考える。一方,典型的な思考型のほうは,感情を含んだ決断や選択を支離滅裂な行為と見なす」
その結果,感情型は思考型を−−感情的に−−人の気持ちを理解しない!と非難し,思考型は感情型を,「しょうがないやつだなあ」とバカにしたいような気持になってしまう。
しかし本当は,感情型も論理的な思考ができるのだし,思考型が人の気持ちが分からないわけではない。あくまで,どちらに重きを置いて「判断」するかだけの違いなのだ。
人間社会が,個々の人間の集まりである以上,個人の心を無視することはできないし,無視したらどこかにひずみがくる。しかしまた,その「個人」が多様であるが故に,客観的なルールというものがなければ,かえって「心」と「心」のナマのぶつかり合いで皆傷ついてしまう。
両方大切だから,バランスを取らなければならない。

私は大学で社会心理学専攻で,その当時「グループ・ダイナミクス」という概念がちょうど流行っていた頃だった。一般日記に書いたごとく,恋愛にかまけて勉強しなかったのが悔やまれるが,本来ならば自分にとって非常に関心のある分野である。企業などの団体運営にこの学問は重用され,社会心理学出身者は企業の人事部などに喜んで採用された(はずだった・・・・・)。ううむ,残念だ。
しかし,私のもっともっと関心のある分野は,どちらかというともっと個人的なもののようである。グループダイナミクスもさることながら,ひとりの人間の心の中でのダイナミクスにはもっと関心がある(そういう点では,臨床心理学こそがどんぴしゃりの分野なのだ)。
自分の過去への後悔はさておき,上述の「感情」「思考」のバランスということも,人と人との間だけではなく,個人の心の中での現象としても大いに関心がある。

結論は,当たり前に聞こえるが,思考と感情のバランスを取るのが大事ということだ。主観的な部分と客観的な部分のバランスである。
カーシー博士のテストをやって,4つのエレメントのうちいくつかが「同点」となって「判定不能」になった人は「私って多重人格?!」と悩んでいたが,実際はそれこそが「バランスのとれた」人格なのだ,と言えると思う。ほどほどに外向的でほどほどに内向的。理想主義的なところも現実主義的なところもある。秩序だってはいるが融通も効く。そして,感情も大事にするが客観的にもなれる。カーシーのテストでは同点だったところはXで表されるが,究極の「XXXX]という人だって理論上はいるはずである。・・・つまらんヤツかもしれないが。

私自身は「感情型」である。おそらく若い頃はもっと突出した感情型だったはずだが,最近はたぶん,若干「思考型」のほうに歩み寄っているような気がする(そう修行もしたのだ)。

人間が感情でものごとに反応するのは至極当たり前だと思う。いかなる行動であれ,それの背後にその人の個人的感情を想像してしまうクセが私にはある。その延長で(というか,どちらが元でどちらが延長なのか分からないが),自分の感情も人のそれのように分析してみるクセもあるようである。感情型だから大いに感情的に反応し判断するのだが,いつもどこかで客観的なもうひとりの自分がいる。

自分でいうのもなんだが,このことはすごく自分にとってよいことだと思っている。感情は味わいつつも,それを客観視もするワザ(?)というのは,かなり「幸せでいるテクニック」だと思える。もちろん,それなりにそのワザを年月かけて磨いて(?)きたのであるが。

感情を抑え付けるというのではない。そんなことは無理である。たとえば,ウツにだって思い切りなってしまう。人のことに不満を持ったり怒ったりもする。家族が相手ならヒステリックになってモノを投げたりだってしてしまう(^_^;)。
だが,いつでもそれを「見ている」観客の自分がいる。
すると,「感情」は抑えたり排したりするものではなく,楽しむモノだということが分かる。感情こそが人間の,社会の,彩りである。あたりまえだが。しかし少し「引いて」みないとその彩りの美しさ楽しさが分からない,こともある(色のただ中でそれを「経験」することも悪くないのだが)。

ここのところ,私が主演の物語の舞台はいささか退屈ではあるが・・。
・・・・そう,ちょっと退屈なのよね。でもまあ,もともとグータラな私としては,エネルギーのやたらな無駄遣いはつらいので,こういう感じは快適である。
理想をいえば,感情のエネルギーをもっと活性化しながらも,それを上手に使っていくというのがいいのだろうが。

しかし少なくとも対人関係では疲れることが少ないのはメリットだ。自分の感情も,相手の発想や感情も等しく同じスタンスで見ることがある程度できると,そうそう深刻にかき乱されることはないのである。

カーシーの論に戻れば,それをつまりは対人関係で意識すれば,「感情型」と「思考型」は補い合うパートナーたり得る」ということだ。

最大の結論といえば,やはり,自分の内部であれ対人関係であれ文化や経済や政治であれ,「多様な側面を多様なままに理解し,受け入れ,共存する」という命題ではなかろうか。こうなると最近ハマっているNHK連ドラ「さくら」を見ては考えていることにも繋がって来るなあ。
(ううむ,どうもいつもあまりに言いたいことがズルズルといもズル式に繋がってしまってまとまりがつかない!!少し整理しなければ・・)


おーゆみこ”天使とサンバ”home